ものQ日記

アラサーフリーター女の冴えない日々。

コミュニケーション能力って。

「コミュニケーション能力」と簡単に言うが、難しい言葉だと思う。

私の中での究極的に高いコミュニケーション能力は「テレパシー」だと思う。
念じるだけで相手に対して完璧に自分の思いや考え、情景までもが伝わる。

でも人間はどうしたことだか、テレパシーが使えなくなっているので言葉を使って、何とかコミュニケーションを取ることにしている。

「コミュニケーション能力」を過剰に求める人は基本的にコミュ力はあまり高くない。
他人に対して強く求め、「あなたはコミュニケーション能力が低い!」とか言ってしまう人はもはやコミュ障である。

話せない赤ちゃんや、犬や猫にコミュニケーション能力を求める人はいない。
それなのに何故か、ただ同じ言葉を使っているだけの相手には全てを理解してもらおうと甘えてしまうのが人間なのだ。
自分が理解することも相手に理解してもらうことも、難しいということに気づかない人が少なくない。

「同じ人間で日本人なのに!」と言うが、同じ人間で日本人なだけで、あとは全然違えば、分かり合えないのも仕方ないと思う。

「あの人はコミュニケーション能力が高くて~」と言われる人は、主に二種類いると思う。

それは「馴れ合い能力」が高い人と「人と言葉のやり取りをする能力」が高い人であり、これらは全くの別物である。

「馴れ合い能力」は似たような環境と能力と価値観の人たちが集まって、似たような考えを話し合って、何となく理解し合った気になるだけの能力である。
各々が元から持っている似通った価値観を、再確認のような形で他人と共有して安心するだけの「単純作業」だ。自分を守るだけの作業になりがちである。

しかし、後者は違う。
全くの自分の中に無かった知識や価値観を取り入れ、相手の立場になったり環境を考えたりして自分の中に落とし込みながら、相手に寄り添う能力だ。
つまり、その度に自分の価値観の一部を崩される危機に晒されるわけである。
それでも挫けずに相手に向き合って、時には寄り添う姿勢を表す必要がある。
そうすることで初めて、相手の心の一部を覗き見ることが出来、理解するための一歩を踏み出せる。

たぶん、後者の意味でのコミュニケーションを取る場面は意外なところで出ていると思う。
予定調和的な会議とか取材とかではなかなか起こり得ないのではないかと思うからである。

例えるならば、全く異文化で生活する外国人や訳の分からないクレームをつけてくる人などと会話するときにコミュニケーション能力は必要になるのだと思う。
自分の常識とか偏見とか前提条件を一旦、脇に置いて、相手の考えや言い分を聞き入れるという作業になるからだ。

まあ別に、それで相手の主張を全て受け入れる必要は無い。

だが、コミュニケーションをするというのは相手の話を聞くことであると私は思っている。

相手の話をよく聞かずに「あの人はおかしい!」「あいつは以上だ!」「あのお客はクレーマーだ!」なんて決めつけるのは、無駄な争いや誤解を生みかねない。

殴り合いや裁判になったら面倒くさすぎる。

とりあえず、理解の難しい相手に遭遇したら、危害を受けない程度には話を聞いて考えを共有するのが大切だと思う。
という、ものすごく普通の結論で今回は終わり。

読んでくれて、ありがとう。
では、また。