ものQ日記

アラサーフリーター女の冴えない日々。

統合失調症とか悟りとか。

※私は統合失調症について、全く詳しくない。
ネットで聞き齧った程度であり、身近な人に統合失調症の人はおらず、実際の当事者に会ったこともない。
テレビで見たことがある程度である。
気分を害された方がいたら、本当に申し訳ない。
私に誤った認識があるようだったら、指摘していただけると、とてもありがたい。



統合失調症は現在、精神疾患として扱われている。

ネット上では、統合失調症の話題が出ると冗談っぽく「頭にアルミホイル巻かないと」なんて茶化すコメントがつくことがある。
統合失調症になった人は"思考盗聴されている"とか"脳が電磁波に攻撃される"と言って、頭にアルミホイルを巻く人がいる」という話から来ている。

私はこの話がとても興味深いと思った。

全く関わりのない、知識のない人々が、ある特定の疾患になると同じことを考えて行動するというのはとても不思議である。
それも、身体的な症状ではなく「思考」に関わり、ある種の積極性があるというのが気になった。

ネットで患者の人々の体験談を読んでいると、その中である種、脳のリミッターが外れて、悟りをひらいたような状態になる人が一部いるようだ。

ネットで体験談を読んでいて、複数人が語っていた話がある。

ある時、自分の意識だけが幽体離脱のように肉体から離れ、第三者視点で上から自分の肉体を眺めた後、ものすごい勢いで宇宙まで引き上げられ、さらにその外側へ引き寄せられる。
宇宙の外まで辿り着いたとき、この上ない幸福感に満たされ、光に包まれ、空間に「自分」が溶け出すような感じがして、「ああ、ずっとこのままでいたいな」と思う。
そこで、不意に何者かの声に声を掛けられる。その声は優しく、脳に直接響くもので、言語ではなくテレパシーで「みんな同じ。みんなはあなた。あなたはみんな。」的なことを伝えてくる。
そして「戻りなさい」と最後に告げられて、急に肉体にまた戻される。

というような話。

これはスピリチュアルの「ワンネス」に通じるものを思い起こさせる。


統合失調症になった画家が描く猫の絵が症状の悪化と共にどんどん変化していく、という話は有名である。
始めは普通だった可愛らしい猫の絵もどんどん猫とは言えない恐ろしいものになっていく。
しかし、最後の絵を見ると何処と無く、曼荼羅に似ている気もする。
ひとつひとつの要素に命や意思があり、それが空間に溶け出して、世界を作り上げている様がよく伝わってくる。

世界的有名画家の草間彌生の作品の黄色いカボチャの模様は、量子力学の二重スリット実験で浮かび上がる縞模様に何処と無く似ているような気がする。
たぶん気のせいだとは思うが、世界的な画家の絵なので評価される理由がそういうところにあるのではないかと考えたり。

先日、自殺未遂をした人のブログを読んでいたら、記憶が飛んだり言葉や状況の理解が難しくなったりする一方で、以前に(暗記を目的とせずに)読んだ漫画の数ページ分を頭の中で読み返していたとのこと。

もしかしたら、人は一度見たり聞いたりしたものは、全て頭の中に保存していて、パソコンのメモリーのように定期的に「忘れたことにしている」のかもしれないと思った。

煩悩や未練がある状態で悟りをひらきそうになるの脳のキャパが耐えきれなくなってしまうのではないかと思う。
薬物を使用して、普通の生活が難しくなるのもそんな理由ではないか。
だから、悟りをひらくためには修行や瞑想をして己の煩悩に気付いて、除くことが必要なのだと感じた。
そんなこと、少しでも悟りに興味のある人なら分かるのかもしれないが私はやっと気付いた。

脳のリミッターが外れると、ものすごい集中力を発揮することができて、そういうときにスポーツで言う「ゾーン」に入るのだろう。

時間の感覚がなくなり、たった一瞬の時間がとても長く感じるようになるというのは聞いたことがある。

まだまだ分からないことはたくさんあるし、間違っていることも沢山あると思う。
私はこれから色々調べてみるつもりだ。

ここまで読んでくださって、ありがとう。

では、また。

人を評価するって難しい。

私はフリーターなのだが、この前、バイト先の店長と作業をしていて、他のバイト仲間についてどう思うか聞かれ、小一時間ほど話をした。
(念のため言っておくが、恋愛絡みの話ではない。)

私個人としての意見をそれなりに言ってみたところ、完全に同意してもらえる部分と全く意見が違う部分があった。

仕事が出来るからといって、人間的に問題ないわけではないし、人間的に良くても仕事は曖昧だったりするとそれも困る。

そしてその「仕事」の中でも得意不得意があって、人間的な部分というのも、長所と短所がある。

それぞれのバイトの人達との相性やバランスを考えて、評価しなければならないということに気付いた。
(まあ、私にはそんなことをする権限はないのだが店長がそのようなことを言っていた。)

あと、同じ状況にいて同じものを見ていても、人によって読み取れることや受け取り方が違うということも何となく分かった。

私は人間的に合わないから嫌い、とかそういうのは考えないようにしているタイプなので、そこには自信がある。
だが、その先が思い付かないので、自分もまだまだだと思い知らされる。


確かに良い勉強にはなったのだが、自分のことを差し置いて他人のことをごちゃごちゃ言うのは何だか疲れた。

ものすごく、疲れた。

自己肯定感が地の底まで落ちている私は常に「私よりダメな人間などいない」という前提が頭の隅にまとわりつき、こびりついている。

だから、単なる世間話であっても他人の善いとこ悪いところを指摘することにものすごく抵抗がある。
言ってしまったあとの、何というか「あーあ、言っちゃった」感がものすごく、ある。

こうやって文章を書いている今も、後悔の念で悶々として、苦しんでいる。

いろいろ言っておいて、ズルい話だが。

誰に許しを乞うわけでもないし、そもそも単なる悪口でなくビジネスとしての指摘をしただけなので悪いことはしていない。

だが、どうしても心の奥底にいる「自分」が苦しんでいるのを感じてしまう。

分かりやすく言うと、つまり私は「自分を裏切り、嘘をついた」のだ。

顕在意識的な自分の言動は、他人を批評することに罪悪感のある「(潜在的で善意の)自分」を裏切ってしまった。
そのことに対して、まず顕在意識的な自分が気付いて、ふと一人になったときに落ち込んでいる。
そして、さらに「自分」が裏切られたことに傷付いている。

自らを裏切り、傷付き、そのことに激しく後悔する、という最悪のコースを辿ってしまった。

他人を批評することに少しでも罪悪感があったり、後悔したりする人は、絶対に他人のことに関して良くも悪くも発言してはいけない。

それは本人を目の前にしているかどうか、という問題もあるが基本的にはあまり関係ないのでないかとも思う。

あー、人間って本当に面倒だ。

読んでくれて、ありがとう。
では、また。

2020年下半期の自分のテーマ。

2020年、下半期のテーマは「愛」である。

ついこの前まで、「愛が分からない」とか何とか騒いでいたくせに結局は愛を語り始めるようなつまらない人間なのである、私なんて。

でも、そんな私ですらわざわざ「愛」を掲げたくなるくらい、最近は思うところがあったわけである。

ここ数年で巻き起こっている世の中の問題や、自分の個人的な興味が向くものを考えてみたときに、全ての根源は「愛」にあると感じた。

薄っぺらいというかよくある表現で申し訳ないが「愛があれば何でも出来る」的な話である。
「愛のために全てが存在し、愛があることで全てが存在する」ということを感じるのだ。

SF映画のフィフスエレメントもよく分からない話ではあるが、結局「愛こそが地球を救う」という、毎年夏の終わりに放送されるナンチャラテレビのテーマみたいな話だった。

普遍的なテーマだからといって、人目に触れると感じが良いという理由だけでこのテーマを掲げて、字面を利用して人々の心を弄んでいるだけのメディアも少なくないように感じる。

きっと「愛」というのは「全て」なのだと思う。

時間とか命とか物とか価値観とか、とにかく全て。
恋愛も家族愛も友情も、愛着も執着も憎悪も。
愛があるから憎しみがあるということはきっと、憎しみも愛なのである。
自分でも何を言っているのか分からない。
眠すぎて今すぐにでも眠りたいがどうしても書きたいので書いておく。

「愛」を知った気になることが一番恐ろしいことなのである。
「愛」は追い詰められないと、気づけない可能性がある。
「絶対的な愛」や「永遠の愛」が存在するか分からない。
変わらないものなどないからだ。

人は死ぬ。

何でもそうだが、何かを初めて知ったとき、そこからやっと第一歩が踏み出せる。
「終わりの始まり」とか「五劫の擦り切れ」とか、そんな感じである。
終わることは始まることで、皆平等に振り出しに戻される。

劣っているとか優れているとか、そんなものは存在しないし、それに縛られているといつまでも苦しむ。

「一番じゃないと気が済まない」人は不幸になる。

絶対的な「一番」になることは無理だからである。
一人でも認めてくれない人がいたら、もうそれは一番ではないのである。

「一番美しい人を決める」とか無理なのだ。
人々にはそれぞれ価値観や好みがあるから。
若ければいいとかスタイルが良ければいいとか、太っていればいいとか。
あるルールに基づいて、はっきりと決まった形の無いものを当てはめてその場だけの順位を付けたって何の意味もない。

「一番」であることを、一人残らず認めてくれるように努めていたら人生はあっという間に終わってしまう。
どんなに美しい人でもいつかは老いるのだ。
「一番を決めるレース」に延々付き合わされる人々だってうんざりだ。
本人も、人生を消耗して、あるとき急に虚しさを覚えるはずである。

抽象的な話になって、よく分からなくなってきた。

とにかく、私が2020年上半期で感じたことは今まで起きてきたことは「愛」から目を逸らしてきた結果として起こってしまった問題が多いのではないか、ということだ。

嫉妬とか孤独とか欲とか、そういうものに目が眩んで流されて、自分を見失い、他人を傷付けてボロボロになっている世の中の現状が少しずつ見えてきた気がする。

まだそれに気付いている人や気付こうとする人は少ないし、気付いたところであまりにも面倒な問題なので逃げる人がほとんどだろう。
あるいは、受け入れられずに逆ギレして、責める対象を見つけて攻撃しだす人もいるかもしれない。

私だって「愛」なんかよく分からないし、自分に感じられるのかも疑問だ。

しかし、大昔から語り継がれてきた「愛」のような何かはあるはずなのだ。
人々が信じてきた「愛」や信じさせられてきた「愛」、そしてこれから信じるべき「愛」について、考えるときが来たのだろう。

本当は、考えなくても分かることなのだと思う。
でも人間はそれを知るために、学ぶために生まれてきて、生かされているのだろう。
私はとても未熟なので理屈っぽく考えて解決しようとしている。

年内に答えが出なくてもいいと思っている。
ライフワークのテーマとして掲げてもいい。
そんな感じで半年くらいは過ごすつもりである。

何となくまとまったので、今回はここまで。

読んでくださって、ありがとう。
では、また。

コロナやだあああ。

最近は、とにかくそんな気分である。

街に出掛けたら、飲食店もアパレルショップも雑貨屋もどこもかしこも入り口に「見張り役」の店員が立っている。
店に入ろうものなら「消毒を忘れていないか?」「マスク無しで入店するなんていう暴挙に出ないか?」「体調は万全か?」とジロジロ見られてチェックされる。

ちなみに私は店頭にある「消毒液」を信用していない。

ボトルのプッシュするところは不特定多数の人が触れていて、接触感染の直接的理由になりそうだし、潔癖症気味の私にとっては単純に気持ち悪い。

そして、 アルコール消毒液ではなくて次亜塩素酸水的な不気味な生臭いようなプールみたいな臭いのする液体をボトルに入れている店が結構あるので、本当に嫌なのである。

見た目をそれっぽくするためだけに、訳の分からない液体をアルコール的な雰囲気に仕立て上げるくらいなら、そんなことをする意味は無いのではないか?

「本当にこんなことに意味があるのだろうか」と思い始めた人も少なくないのではないだろうか。

正直、ニュースを見なければ、何が起こっているのかさっぱり分からない。
身の回りや知り合いにコロナになった人はいないし、街中を歩いていても人がコロナでバタバタ倒れていたり病院がコロナで混雑したりしている様子は見られない。

全てが画面の向こうで起こっている「異世界の話」のように思えてくるのである。

SFが好きな私からしたら、メディアで語られているコロナの恐怖や惨状は、今の世界に限りなく似ている別の次元の世界を映し出しているのではないかと感じるのだ。

そんなことはあり得ないとは思うのだが、そう思ってしまっても仕方がないくらい、身の回りにコロナの人がいない。

今のところ、日本でコロナになる確率より宝くじで高額当選する確率の方が高いくらいらしい。

私自身は宝くじで高額当選する自信なんてない。

世の中の人は皆、自分を過信しすぎている。
コロナが怖い人は宝くじを買った方がいい。
買う枚数は恐怖の大きさに比例させるとより良い。

まあ、幸せな人は死ぬのが怖いだろう。
そういうことなのだと思う。
だから私にはわからないのだ。

読んでくれて、ありがとう。
では、また。